ラバーハンドイリュージョンと共感の話

 

つい今しがたTwitterに流れてきた動画が懐かしいもので,ついつい思考が研究に戻ったので。

今までの思考を整理する意味合いで書こうと思う。

 

動画はラバーハンドイリュージョン。きちんとした手続きで行なっていて,昔論文だったかヒルガードで読んだ内容そのままであったように思う。これを初めてみた僕は,これが思考にも生じて,拡張が起こっているのではないかと思ったのだ。

 

研究テーマであった共感について,まさに僕がしたかったものはこのような物で,「人の気持ちが手に取るようにわかる」だとか,「痛みがわかる」というものだ。ラバーハンドイリュージョンは身体感覚の錯覚の現象であり,幻痛とかそういうものに似ている。

これの精神バージョンを行いたいななどと思っていたのだ。

でも難題があって,どうやってその「痛み」が同じであるとか,「同じような苦しみ」を得ていると評定できるのか。生理指標をつかって発汗や脈拍をはかるにしても,日常でそんな器具をつけて共感を行う人なんていない。”同じような気持ちになりましたか?”なんて聞いたところで,回答は個人の評定であり,何が同じだなんてわからない。定義づけを行なって限定的にするか,それとも装置をつけるしか現状思いつかない。

 

そもそも「同じ」とはどういうことなのかだって,話をする側の気持ち・された側の感情をそれぞれ評定しなきゃ叶わない。しかもある程度の苦しみが生じる場面に,たまたまそんな質問紙がとれるなんてことがない。苦しみの出来事も人によって異なる。”自然に実験が行えない”という時点で,不可能になるのだ。

 

少なくとも統制された環境では取れると思うし,ただ状況が限定的。共感「させる」側を統制して状況を生み出し,それを受けてどう感じたか,なんて共感なのか?ただの感情反応ではないか,なんて文句もつくだろう。

 

「同じように苦しい」を証明するのは本当に難しいのである。

そんなことに悩んでもう何年も経つけれど,まあもう一つ別の話がある。それは子供達の変容だ。

これもまた事実というより所感であるし,「近頃の若者は…」とどの時代でもいわれるようなことを繰り返しているだけのことなのかもしれない。

それでも言うならば,現在の小さな子供たちは,代理強化の影響をうけやすくないか?というものだ。

 

誰かが怒られる経験をした。その人ではなく,それを見ていたクラス生徒が,学校にいくのが怖いと言って不登校になる。

 

人の目線が怖い。怒ってるんじゃないかと思う。

 

そんな話をまま聞くようになったのは,自分の立場の変容によってなのか,昔からそうなのか,それとも本当にそういう人が増えたのかもしれない。わからないけど,もし後者だったときの,今思う要因や流れの中にいるものを挙げたい。

 

ソーシャルメディアSNSによる感情の煽り。情報過多,没入型ゲーム。

身体的接触を伴う相互交流,親子間の交流。

 

地域だとか親戚だとかタテヨコの話は昔からされてたので割愛するけども,上記は関係ありそう。

 

ここからは空想の話。

代理強化は攻撃性の側面で用語として出てきた。対象者が賞賛されたり罰をうけるのを見ることによって,学習できると言う物だ。

さっき言った,「クラスメイトが怒られているのを見て,不登校になる」というのは,メディアのオーバーな感情表現であったり,没入型ゲームでの一人称視点によって身体拡張ならびに”精神拡張”なるものがなされ,罰を受けた当事者視点にインスタントに立ってしまえるものではないのか?と夢想する。いわゆる”インスタント共感”だ。なぜインスタントかって言うと,別に彼らは認知的共感によって学習をしたのではなく,感情に振り回されているだけだからだ。なぜならそうして不登校になった子は,怒られないようにするための術を学んだのではなく,当事者の立場だけに立って,「怒られた場面での感情」の視点にしか立っていないからだ。

 

怒ったのが怖かった,自分も怒られるかもしれない。もしくは,怒った際の周囲の目線だとか噂話だとか。噂なんてSNSで一瞬で拡散されるし,LINEで勝手にグループが作られているかもしれない。自分が統制できないものが多すぎて,(そこまで思考の回る子供であれば)そういった大きな雲のように広がった不安と恐怖心で不登校になる。不登校になるとメディアやSNSを多く活用し,「選択的に」そういった情報を入手し,自分の不安や恐怖を証明していく。

 

インスタント共感,流行らないかな。

 

 

 

本気で自分を考えようにも,それも何も生まれない

意思決定の際に,逃避回避行動としての意思決定が多かったように思う。

そのため,少しここでは私の整理をしようと思う。

 

博士論文執筆にあたって,私のプライドなどというものがある。

何か大きなものを達成しようとしている気持ちと,それができないとどうしようという気持ち。

向き合ってみなければわからないことは重々承知だ。

時に尻をひっぱたいてくれる人も欲しかった。

 

今は…どちらかというと,深く沈み込みたい。そんな気持ちだ。

周りに合わせて3年で書ききりたいという気持ちは,3年で書けないのか,学振も取ってないのに,書ききれないのか。

論文出せばいいものを,出さずにいるのは何なのか。

 

成果成果と掲げる口に辟易し,自己像の高さに閉口し,他と比べて幻滅し,しかしプライドは守りたい,ちっぽけな存在である。

周りからよく思われたい。そんな振る舞いをして,しかし実のところ自尊心は高くない。

 

私の目標はどこにあるのか。

 

正直,争いのない世界に行きたい。

身分が確保され,お金に翻弄されることのない世界で,保証された世界で生きていたい。

 

そんな世界,どこにもないというのに。

承認欲求段階のいずれかで,常に争いは起こっているのだから。

 

自分を守る方法として,回避を選択したが,

私は回避して自分を守って,そして何を目指すのか。

 

まっとうな考えをもつ大人になれたとて,やはり目標は必要で。

 

そのためのスモールステップは必要で。

 

傷をなめ合う相手がいないならば,立場の違う人とともになり。

 

自分の”まっとうな”考えを否定してくれる人を探し続ける。

 

博論は書く気も起きない。しかし,研究への興味はある。

 

じゃあ,博論は書かなくていいから,研究を続けようか。

いや,そんな安易な考えに寄れるならここまで一人でうんうんと悩んでいないのだ。

 

前に進み続ける力は今はない。そのため,前に進む者を見ると苦痛が生じるのか

 

自分のペースを理解していない状態で動くことが,他人のペースに合わせなければならないことと重なり,苦痛が生じるのだ。

 

合わせる必要はないのだが。

 

しかしそこまでして生きる必要も感じていないのだ。

 

 

雑音を厭い,雑音に救われ,愛を信じようとして,環境調整に追われる。

まあ,今この状況で動くことは少し馬鹿かもしれないな。

 

 

 

「どうして」の正解がない”死”

死について,「なんで急に」「どうして」と実感がないことが初めにはある。後にもあったりする。

 

そりゃそうだ。日本はまだ安楽死の制度がないし,「明日死にます」「何日に死にます」なんておおよそ健康な人が宣言することもなければ,分かったりもしない。

実感が伴わなくて当然である。

 

葬儀の一連の’儀式’や’習わし’は,「死」とかいうはっきりしているけれども曖昧なものを可視化して,「死の作業」を編み出したものだ。

それによって,人はその人が死んだことを体感的に知るのである。

 

苦しいことは変わらないけれども,「なぜ」「どうして」の答えはない

愚直な答えはあるかもしれないけれども,それはその人の求めている回答ではないし,

答えがないけれどもなんどもそこに立ち止まっては同じ苦しみを味わい続けるのである

 

 

知人の死であれば,「なぜ」「どうして」に区切りをつけやすいかもしれない。

相手に対する思い入れの違いもあるけれども,情報という単位で見てしまってもやはり考えるにもそれは少ないのだ

 

友人の死,親類の死には,反芻も多くなることであろう

そしてその反芻は,いつまでも抜け出す道がないことがある

反芻している限りは苦しみをかみしめ,味わい続けるのだと思う

 

反芻に意味はないとは言わない。何度も繰り返し味わって,別の味わいになるかもしれない。

 

でも,「なぜ」「どうして」という問いには終わりがないのだ

そこを反芻の始点としては,本当に,「終わらない苦しみ」が永遠に流れ続けるのだと思う。

 

罪のない人が殺されたり,拉致されたり,そんな「死」には,終わることのない「なぜ」と苦しみがあり続ける

ほんとうに辛く,苦しい,終わることの無い悲しみがあるのだと思う。こんなちっぽけにしか慮れないくらいに

 

だからこそ,そんな「死」じゃない限りは,「なぜ」「どうして」に必要以上に捉われ,

必要以上にそこに時間を要することはきっとないのだろうと思う

 

「なぜ」と,「結果を受け入れる」の乖離が激しいけれども,

「受け入れる」ことを徐々に受け入れて,その人の「死」をつかむことをしていくんだろう

 

死んでしまったものは,死んでしまった

 

だから前を向けとは言えないし,そんなポジティブ一足飛びなんて無理である

だからこうするは正直いらなくて,「死をつかむ」「死を受け入れる」ことの作業を,

 

「なぜ」「どうして」 よりも気に留めていけたらいいなと思う。

 

 

 

R.I.P.  受け入れられないけれども,受け入れます

   でもちょっと早すぎましたね。

 

「みんな」がいないことによる安心感

「みんな」がいないことによる安心感

 

一人の時間は大切だが,有意義に,自分が満足して過ごすことは不得手である。

時間管理能力が欠けていることのほかに,おそらく社会に依存している性格の負因もある。

 

しかし,最近感じるのは,「みんな」がいないことによって楽だと感じてしまうことが,

 

 

ふとした瞬間に沸き起こる。

 

 

 

「みんな」の定義が難しいが,職業の分野が一緒だとか,自分と行動を共にする人だとか,そのように自分という存在に侵入してこられるように思えてしまう,”自己の考える存在しない他者”である”知っている他者”が,まるで社会不安のように自己に降りかかってきているように感じるのだろう。

 

 

噛み砕くと,自分が「周りの人からこう見られたらいやだ」「こう言われたら嫌だ」「こう思われてた/いたらどうしよう」と考えて,周りの知っている人を,自分に実害のあるように脅かしてくる存在であると勝手に自分が認識していることだ。

 

 

 

社会的地位や立場はもちろんそれ自身に価値があるが,自分がよりその価値の意味を見出し,プライドと混ざりあって手の終えない壮大な膨らみに化している。と,私は思う。

 

 

 

そんなお化けに,脅かされ,傷ついている私にとっては,そもそも多重関係のない他者が増えてきたことによって,自分が生み出した他者と,実在の他者の区別がつくようになったから安心できたのではないかと考えた。

 

 

お化けをリアルにしないように。

自己成就的予言のように,またはゴーレム効果(悪い印象を持って人と接すると,実際に悪い人となってしまう)のように,言霊や信念には宿るものがある。

 

 

人に発する言葉だけでなく,自身の信念や,他者に対する印象も,自分の考える他者も,言霊のように気をつけて取り扱わねばならない。

 

 

 

ありがとうございました。

令和に寄せる

元号発表に伴い一大イベントとなりました。

今上天皇ご存命の間での新元号発表は、国民が喪に服し粛々と発表されるのではなく、イベントとしたのが本当に敬服することです。



現在友人とミスドのドーナツを食べている間に発表となりましたが、これも一つの思い出になるのでしょうか



静かな闘心、見せることなく、目の前にとらわれず自分の道の先に有るものを見つめ、焦らず弛まず、中庸を目指したいものですね。

博士課程とブログ開設

お読みいただきありがとうございます。kinDです。

 

少し自己紹介を。

日本の国立大博士課程を送る一人の人間のブログです。

趣味は旅行。旅先で会った人ととりとめのない話,深い話,何でも話すのが好き。

お酒。夏はビール,後は日本酒。赤ワインはフルボディのガツンと来るのが好きだし,

白は軽いものが好き。

写真。風景,陰影,反射,水の流れ。風の流れ

珈琲。

 

 

本ブログでは

とりとめのないことを書き連ねていくかもしれないし

何か突き動かされたことを連ねるかもしれない

唯々憂鬱な日々を書くかもしれない

自己啓発に似た何かを生産するかもしれない。

 

 

まだこのブログでの人格をどう連ねるか決まってはいないけれど

匿名性による自由によって

表現の許される範囲

人を傷つけない範囲で

自分の日々の思うことを書き連ねられたらと思う。

 

 

ただ博士の環境以外の道として

ここに残すのかもしれない。(1終)

 

 

***

 

 

 

取りあえず一人称は「私」にする。

 

 

 

よくわからないが何かをしたくて,誰にも見られないかもしれない,誰かに見られるかもしれない匿名の新しい環境に,何か跡を残したかったのだろう。

 

 

だからただ跡を残す。

博士としてのHP作りや

名刺作り

投稿論文作成

海外の教授への連絡

日本での連絡

 

やらなければいけないことと,やりたいことの混在する中で

なぜ自分が博士にいるのか分からない

こんな中途半端な博士課程なぞ,世の中を甘く見ているとしか思えない。

だからこそ「ちゃんと」しようと背伸びしようとしてしまうのかもしれない。

 

 

茨の道を歩く決心などないが,シガラミに捉われ憂鬱になり自分の状況を嘆きながらしか

 

世の中を歩けないかもしれない不器用な人間であることは確かなんだろうな。

 

 

 

 

 

 

教育の免許を取るにあたっての授業で

「善く生きる」という言葉だけ私の中に残っている。

文部科学省だかソクラテスだか私には知識がないが,

ただ,救われた気がした言葉だ。

 

 

 

betterを目指しての努力は「良い」ことなのかもしれないが,

ただそれは世間一般からの評価であり,常に関係志向的である。

だからこそのgood enoughという視点は,自己のみを自己が観察し,満足するという

 

 

収束した考えに安心してしまった。

 

世間一般と関わる際は基本的に一貫した自己呈示を行い,良好な関係のための自己の役割を担うが,

 

 

一人でいるときの「自己呈示した自己」は重荷でしかない。

一人でいるときくらい何も考えたくはない。

 

 

何も考えないことができたらいいのに

 

常に考えを強いられてるこの強制脳は能がない。(2終)

 

 

 

 

 

***

 

珈琲は深入りが私は好きで。

空間はカウンターのあるもの,オーナーが見える場所が好き。

 

見えるけど,見る必要がない空間は,

見たい時に見える自由さを持つ。

 

オーナーかっこいいなあ・・・

 

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お読みいただき,ありがとうございました!